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タイトル: 19世紀末の東アジアネットワ-クにおける長崎と仁川
タイトル(別表記): Nagasaki and Incheon in Late Nineteenth Century East Asian network
著者名: 李, 炯喆
著者名(別表記): LEE, Hyongcheol
発行日: 2010年3月31日
出版者: 長崎県立大学東アジア研究所
雑誌名: 東アジア評論
号: 2
開始ページ: 61
終了ページ: 72
ISSN: 1883-6712
抄録: 帝国主義の権力政治と戦争で塗りつぶされた19世紀中期以後の東アジア歴史の裏面には、東アジア地域間の貿易と人的交流というもう一つ歴史がある。鎖国から目覚めた東アジアには上海を中心とした交易ネットワ-クができ、朝鮮の開国と仁川の開港と相俟って、上海-長崎ネットワ-クが仁川まで延長された。そのため、仁川には日本人、中国人、西洋人の居留地ができ、国際的な港に発展した。朝鮮の仁川と日本の長崎の交流は歴史の必然と偶然が結び付いたものである。同時代の歴史も国家と地域という違うレベルから見れば、歴史的情景が変わるので、実は国家間の歴史も不充分な記録に過ぎず、異なるレベルの歴史を重ね合わせることによってより正確な記録になれる。上海-長崎-仁川ネットワ-クの中で長崎の役割は綿布などの中間貿易港であって、長崎県民が仁川まで進出したので、仁川には第十八銀行の支店も設置された。しかし、長崎は貿易港としての栄光を次第に東西航海の要路に当たる神戸と門司のような港に譲らねばならなく、仁川も米輸出港に変化して大阪と結びつくこととなった。日中朝の貿易商人の競争を見ても各国の国運の盛衰とともに浮沈し、東アジアは日本の勢力圏となった。 未だ日中韓3国は19世紀末以来の歴史の負の遺産を引きずっているが、当時の東アジアには我々の想像を越える交易ネットワ-クが形成されていて、当の地域に住んでいる我らに示唆するところが多い。今は長崎―仁川―上海が航空便で結ばれるようになり、仁川と上海の間には定期船も往来している。グロ-バリゼ-ション時代に相応しい東アジアの交流ネットワ-クを如何に再構築して共に繁栄するかは、我らの努力次第であろう。その条件は整えつつある。
キーワード: 東アジアネットワーク
上海・長崎・仁川
ネットワークの再構築
URI: http://hdl.handle.net/10561/1024
出現コレクション:第2号

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